〜なつぐさふゆなみ〜
 一般に井上靖の小説「夏草冬濤」は「しろばんば」や「あすなろ物語」から続く自伝的小説と位置づけられている。静岡県立沼津東高等学校の前身、旧制沼津中学時代での生活を、作者の実体験をもとにして智方神社とクスノキ  〜静岡県清水町〜描かれた青春小説であると誰もがそう思っている。しかし、実際にはそうばかりでもないようである。そこには明らかに読者を意識した井上靖特有の虚構が存在するのである。
 
 平成7年の夏、私は○岡県教○委員会主催の文学紀行イベントで、県下の文学好きな高校生6名と一緒に、この小説の舞台である沼津や三島の各地を訪れ、また、作中に登場する方々とお会いし、当時のお話しを伺う機会があった。小説の初めの方にある、いわゆる「鞄紛失事件」。これは主人公の洪作が始業式に必要のない鞄を学校に持っていくのが恥ずかしいため、下宿のあった三島から徒歩で通学途中、黄瀬川の神社にある楢の木の根元に隠したが紛失してしまい、教師に怒られるばかりか伯母まで学校に呼び出され、ようやく後で見つかった、という事件である。(実は鞄の中にあった弁当の匂いを嗅ぎつけた犬の仕業であったのだが・・・)
 クスノキの根元には大きな窪みがいくつも。
 私達文学散歩グループは実際に黄瀬川の神社(現在の智方神社)へ足を運び、文庫を手に登場人物の役を決め、身振りも交えて朗読するというロールプレイを試みた。すると、現在でも神社にはご神木となっている大きな楢の木があり、その根元は複雑に絡み合い、盛り上がっていて、ちょうど学生鞄ひとつぐらいは入りそうな窪みが実際に何カ所かあった。ある生徒曰く、「これは時空体験ですよね。」。まるで洪作や同級生の小林、増田ら、登場人物の思いが時を超え、生々しいほどの臨場感をもって甦ってきたような心持ちになった。そしてそれは、その後の場面である三嶋大社でのロールプレイにおいても同じであった。「ああ、本当にこんなことがあったんですねえ。小説ゆかりの地を訪れ、井上靖の当時の思いを疑似体験し、作品に酔うことができたなあ。」とつぶやいた生徒だけでなく、誰もがそう確信していた。しかし、後でわかったことだが、それらの場面は全くの虚構であった。「自伝的」とは言え、それはやはり想像の産物としての、「井上作品」の世界だったのである。
 
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  この作品の中で洪作が下宿していた家の息子として登場する従兄弟の俊記、間宮清一さん(平成7年当時87歳・故人)に伺ったところ、「えっ? 鞄をなくして怒られた? さてそんなことはあったかなあ、全くないと思いますよ。当時、井上は毎日柔道ばかりしてましたからね。柔道しかないという感じでしたよ。」という言葉が返ってきた。あまりの意外さに愕然とする6名の高校生達。今までのロールプレイはいったい何だったのかという怪訝そうな顔つきをしている。そして、追い打ちをかけるようにさらなる「生き証人」がとどめを刺した。
 
 金井廣さん(当時88歳・医師、詩人)はこの作品全体を通して「金枝」と呼ばれる重要な登場人物である。作品冒頭には水泳講習会で上級生からいじめられた洪作が先輩の「金枝」達に救われる場面があり、ラストには一緒に土肥旅行に出かけるというシーンがある。「確かに水泳講習会はありましたねえ。でも、井上がいじめられたり、僕らがそれを助けたという事実はありません。最後に土肥へ行ったのは事実ですが、僕はその時病気で参加しなかったのに行ったことになってますしね。・・・鞄事件? そんなのないと思いますよ。井上が後ででっち上げたんでしょう。」・・・どうやらこの「自伝的」小説には随所に事実の脚色や虚構が潜んでいるようである。金千本浜より旧制沼津中学のあった香貫山方面を望む。井さんは続けてこう話した。「あったことをあったとおりにそのまま書くだけでは自分が面白いだけでしょう。相手はつまらないじゃないですか。だから、なかったこともいろいろと想像して書く。読者に読ませたいからですよ。問題は、それがすぐにウソとばれるようじゃあ、小説としてダメなんだと言うことです。本当にあったかもしれない、あったんだと読者に思わせるから感動するんでしょう。それが小説というものでしょうね。その意味で、井上はでっちあげがうまかったですよ。」
 
 目が「テン」だった周りの生徒にようやく笑顔が戻った。そう、例えば鞄事件については、毎日片道5キロも歩く途中の神社で休むこともあっただろうから、その経験が小説の素材になり得たのである、と。あるいは取材をしたのかもしれない。そういう小説家井上の努力があり、思惑があったからこそ、その上に架空を交えて場面を再構成し、私達が騙されるほどの文章表現に仕上がったのではないか、と。鞄の事件が事実であろうがなかろうが、たとえ虚構の世界を通してだとしても、私達文学散歩グループはこの小説によって当時の井上靖、そして洪作少年と触れあうことができたのである、と。
 
 金井さんはさらに続けた。「井上は短編の名手と言われてきましたが、ある時こんなことを言ってましてねえ。・・・もともと小説が長くないんで、推敲する時には原稿を部屋の壁に順序よく貼っておく。それを毎日、眺めるんだそうです。すると、この表現は長すぎるから短くしよう、いや、やっぱりいらない、などと思って消していく。完成して気づいたら、最初の10分の1くらいになってるんだそうです。」
 
 短編ではないにしても、おそらく「夏草冬濤」についても同じようなことをしたのであろう。虚構を含みながらも十分に構想を練って書いた自分の文章に厳しく向き合い、ここから先は言い過ぎ、これだけでは言い足りないというぎりぎりのポイントを見切ったのであろう。こうして井上靖の「自伝」的小説「夏草冬濤」は生まれたのである。

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「自伝的」小説としての井上靖「夏草冬濤」