大正後期〜昭和初期のものと思われます。

新発田旧城址や沿線図(盲腸線は赤谷線)などが描かれています。

貨車さんよりコメントをいただきました。
「父の故郷が「新発田」です。 盲腸線の「赤谷線」はもともと日鉄の専用線として敷設され、終点東赤谷からさらに「鉄山」駅まで線路が延びており、いまでも橋梁、トンネルがみられます。この線の最終駅「東赤谷」は国鉄唯一の「スイチバック終着駅」でした。C11のころはたいへんだったようですがキハ58系に変わってからは楽になったとのこと。かつて東赤谷から磐越西線「三川」に通じるルートが真剣に検討されたりしました。太平洋戦争中には県内の魚沼軽便線、弥彦線の一部が不急不要で鉄材供出対象になっていますが、赤谷線はそれどころか、鉄鉱石の運搬ように逆に貨物が増量されました。東赤谷より先は日鉄専用線ですが、近くの山、温泉湯治客用に便乗もさせていました。往時の写真では明治期のマッチ箱客車が使用されています。かつて「東赤谷」に英国製転車台があり、これがいまでは大井川鉄道・金谷でみられます。」


   

     

上は大正後期か。その上の掛け紙と類似していますが、こちらは販売人がフルネームで書かれています。40銭という価格は大正後期の「上等御辨當」の金額です。

      

播磨国赤穂藩士であり、赤穂四十七士の1人、堀部安兵衛手植えの松が描かれています。父は越後国新発田藩士中山弥次右衛門ということで、堀部安兵衛も新発田で生まれたようです。

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