2004年5月9日付記。新潟県在住の「貨車」さんより以下のコメントをいただきました。

昭和12年7月7日七夕。。
北京・盧溝橋にはこのとき北京駐屯第一連隊傘下第三大隊付属の秋田の第八中隊が演習中、永定河向こうに駐屯中の国民党二十九軍「側」から銃弾が撃ち込まれ、さらに中隊の日本兵一人が行方不明。日本兵はのち発見されています。しかしどうも「発砲」は中国共産党トウ小平の部下がやった、ともいわれます。
日本軍は明治三十三年・1900年の「義和団事件」の「賠償」の一環として日本はここに「駐屯権」を得ていました。アメリカ、イギリス、フランスもいた。ズレますが北京に一番近い重要港・天津にはこの「八ヶ国連合軍」各国の「租界」がありました。上海につぐ大きさ、華麗さ。
さてこの「盧溝橋事件」即「日中戦争勃発」となるようですが、実際にはこの「盧溝橋事件」は、たんなる「軍事衝突」で終ります。
が、8月9日上海で大山海軍中尉と斎藤一等水兵が、国民党に狙撃されて死亡。ついに「日中戦争」が勃発。国民党軍、日本軍と共産党軍の三すくみになるわけです。とにかく日本は増援部隊を大量におくりこむわけです。

当時の新鋭機「九六式陸攻」、ついには当時「十二試艦」の名で呼ばれた「零式艦上戦闘機」こと「ゼロ戦」が出てきました。中国空軍は米国からクレア・シェンノート大尉を招聘、「義勇空軍」「フライング・タイガース」を組織しました。日本機一機撃墜ごとに基本給+ボーナス。
中国空軍にはアメリカ製カーチス・ホークやP40ウォーホーク、ソ連製のポリカルポフI-16、I-15が配備されていたんですが、日本の「ゼロ」はあっというまにこれらを駆逐してしまい、中国の制空権を一気に掌握します。陸上部隊も12月南京へと進軍。このとき揚子江の米砲艦「パネー」を日本は誤爆してしまいます。しかし蒋介石は南京から「遷都」、飛行機で「漢口」へ。ここもおちて「重慶」。
南京では悲劇が・・。ここのドイツ人ジョン・ラーヴェは「中国人」を「日本」からまもりますが、2年後の昭和14年にはリトアニアで日本の杉原領事代理が「ユダヤ人」を「ドイツ」から守る、というアベコベがおきるのです。

さて重慶は坂ばかりの街ですが戦前、日本租界と英国租界がありました。欧米人も結構いて、辺鄙な街ではなかったようです。ここの駐華ドイツ大使オットー・トラウトマンによる和平工作が日中の水面下でひそかに行われていました。これには近衛文麿の息子でシベリア抑留により悲劇の死を遂げた「近衛文隆」もかんでいたらしいのですが、翌年13年年頭オヤジの文麿は「爾後、国民政府をあいてとせず」という最悪の一言をいいました。蒋介石との和平なぞ無い!と言う事です。
これにはウラがありました。当時日本国内ではいくつかの工作がネリあげられています。「杉工作」といい、当時日本円よりも米ドル&英国スターリング・ポンド、香港・シンガポール・ドルとの互換性を持つ、国民党の銀行券「法幣」のニセ札作り。これを流せば国民党の「法幣」の価値は、地に落ちるのは火を見るよりあきらかでした。しかし「法幣」の紙がなかった。こんなとき広東で日本は「法幣」の製紙工場をまるまる接収したのです。陸軍の影佐貞明大左はこれら機械をそっくり北海道へ移設しましたが「法幣」ニセ札はでなかったようです。

さて国民党内部でも、徹底抗戦を唱える蒋介石と和平救国を唱えた汪兆銘がイガみあっていました。日本は汪兆銘抱きこみの工作を開始。汪兆銘、陳公博、周仏海ら「汪兆銘」派らを重慶から脱出させました。しかし、経由地のフランス領インドシナのハノイのアジトに国民党の秘密警察「藍衣社」特務が突撃してきましたが。しかし難を逃れた汪兆銘は上海に現れ、ついに南京に「中華民国維新政府」なる「第二の国民党政府」がデッチあげられるのです。主席はもちろん汪兆銘です。コチラのお金は「中国中央儲備銀行」の「儲備券」。しかし全然信用が無い。太平洋戦争中には香港市民から日本軍憲兵が「香港ドル」との交換と言って国際的に信用をもつ香港ドルをまきあげました。また上海ではそれまで跳梁跋扈していた重慶国民党テロ軍団「藍衣社」「CC団」に対抗する、「泣く子も黙る」日本・南京政権側テロ団「ジェスフィールド76号」を創設。ここには汪兆銘に賛同した藍衣社テロ軍団のボス、丁黙邨と李士群を招聘しました。
そして藍衣社・CC団の工作員たちを血祭りにあげていきます。

戦後、名古屋で19年に客死していた汪兆銘をはじめ、汪兆銘の妻陳壁君、陳公博、周仏海、丁黙邨、川島芳子、李香蘭(日本人であるのが判明→強制送還)などの満映などの「親日」俳優などは「漢奸」(憎い日本に協力した民族の裏切り者)として「処刑」。
なお李士群は昭和18年上海の「ブロードウェイ・マンション」で「会食」で、憲兵隊に細菌いりの洋食を食わされて毒殺されていました。




2003年12月6日付記。

その後、駅弁のリンクでお世話になっている東京都在住「さっちゃん」さんからのご報告で、2周年記念の弁当もあることが判明しました。こちらは駅弁屋さんの名前がスタンプで捺されています。
「今日は支那事変勃発二周年に当たります。時局愈々重大なるの秋、挙国一致新東亜建設に邁進するの決意を一層鞏固にすると共に出征将兵の労苦を偲ぶ一端として本日に限り一菜主義に則った簡易な辨當に致しました。」
などと書かれていました。
こうなると三周年の堅忍辨當の存在も気になるところですね。
 ご覧の通りでして、ずいぶんと昔の駅弁掛け紙です。中学校の頃、月刊誌「旅」で知り合った年配の方より戴きました。左下端が破れ、裏からあて紙をして補修した跡があります。今は音信不通なので、この掛け紙がどこの駅で販売されたのかもわかりません。

 「一菜主義」と書いてありますが、いわゆる「日の丸弁当」ということなのでしょうか。 
 この駅弁について何か情報をお持ちの方は掲示板かメールでぜひお知らせ下さい。

駅弁・ちょっと変わり種へ戻る

上ちゃんのふれあい掲示板  メール

駅弁ノスタルジア戦前編へ戻る

支那事変勃発5周年記念弁当を見る